文がひとつにまとまった後、それを眺めては不要な語を削っていく。特に動詞は、ひとつでも多く取り除けないか、何度も確かめる。私を主語とするそれらを含ませることが、捻くれた自己陶酔・屈折した目配せのように思えて、多分、動詞を使う自分を遠去けたいのだ。あくまで文中では、比喩や外部を媒介する一種の静物として存在しようとする。それが立て込んで、次第に顔や四肢のあったことを忘れてしまう。トルソーになる前の安全装置としての記録。
大学の最寄駅から当時の部屋までを歩く途中、夜更まで開いているパン屋に必ず寄っていた。数百円と引き換えに、命名理由の解らない甘い食パンを一斤購入し、それを囓りながら帰る。大抵は泣いているか、泣き終えたような顔をしていたと思う。虚しさに由来する飢餓感を過食によって補填しようと、限界までものを詰めていた、あの肢体の確からしさ。
いま暮らしている街のひと達は、みんな寝支度が早いので、夜中まで店を開けているということがない。代わりに、幾つかの花壇がある。大体はマンションか何かの管理下に置かれているが、時々、人の手の気配のしない花壇の群れがあって、それが嬉しい。野良の雰囲気を持った、私とは一点の関わりも持たない共同体。日毎に殖える花が、何にも縋らないで一人帰れることを証明してくれているような気がして、刺のない感情のまま玄関に靴を脱ぐ。