新しい部屋

その人には8年ぶりに会った。当時の私はまだ中学生でそのときも彼は白髪のおじいさんだった。生まれた地元にあるクリニックに通っていたけれど引っ越しに伴い東京の系列医院に紹介状を渡された。頭上には眩い白色ライト、左手にはシャンプーヘッドみたいな管と紙コップ、それらを装備したリクライニングするチョコミントブルーの椅子。靴を脱いで体を乗せると相槌をうつ隙間もなく彼は喋り続けた。

ああこのかんじ、そうだった。

口腔は体のすべてと繋がっていること、口内を覗けば体内環境がわかること、臓器を日頃から手入れすることはできないけれど歯はメンテナンスができること。脳は体内の臓器のひとつで、腸から取り入れた養分を元に活動している。すなわち歯が汚れることは口内そして腸内の細菌が増えることにつながり、腸内環境の悪化は食事バランスも無駄に失われ脳の機能も低下するという一連の論理を話したてた。続けて「うつ病患者の8割はたいてい口が汚いのと、新型肺炎も口が汚ければ予防にならない。」とも付け加えて。

中学生の私は、矯正装置の荒々しい歯痛に耐えられず給食をまともに食べることができなかった。牛乳瓶の飲み口が歯に触れる激しい痛みの感覚をいまでも鮮明に覚えている。おままごとのような、おもちゃみたいにチープな光沢をするお皿に、よせられた給食を毎日のように残す私を見てクラス担任は心配の声をかけていた。食事という欲求行為に興味が湧かない性格も少食に拍車をかけた。

どれだけ空を見渡しても低く、他者の声振が耳を突き刺すように届く。誰のせいでもない不安は尽きず、メビウスの輪みたく堂々巡りの思考を歩んでいることに気付いたとき、慢性的な寝不足と食事が根本の原因にあるのだと悟った。食べたものが自己の体を形成・維持していて、思考は脳でおこなうという自明の事実。それからだろうか、思考に靄が掛かり鈍った言動で大切な人たちを傷つけてしまう危うさに脅迫されはじめたのは。私が所有するわずかな知性を失う恐怖。

仰向けになり真っ白い天井の虚空をただ見つめ、院内を満たすサティとかショパンを、器具同士の触れる硬く尖った振動やドリルの回転する駆動音とがときどき打ち消す。当時通った天井クロスはウィリアムモリスだったなと思い出しながら目蓋を閉じ口を開いた。

none