ただでさえ面会しても、口数の少ないぼくたちは困っていた。通話では沈黙の会話が成立しづらい。同一の場所にいれば、街路の樹木にぶら下がる果実を指差し、名前を尋ねられる。色彩からどんな味か、たがいに空想しあうことができる。しかし、その場にいないのではそれはできない。隔絶された部屋にいては意想外の光景も、出来事も生じない。机で静かに広がっているパインアメを、口に放り込んで、打開策を思案する。
扉をあけ、うつろう景色に向かえないのであれば、ぼくたちでこの場に組み立てるしかない。そう思い立つと、棚奥に仕舞われた文庫本を抜きだし、マイクに向かっていくつかの断片を朗読した。
例えば「島貫は無言で一本口にくわえ、それに火をつけてから、安樹子に渡した。彼が見守る中で一センチほどそれを喫い、灰皿に押しつけて火を消すと、安樹子は立ち上がった。」*1と書かれた部分を読み上げたとする。そうしたら、電話の向こう側に「タバコ吸ったことある?」と尋ねられる、飾りのないきっかけが生まれる。
閉じこもった部屋では起こりえない場面が、この地点でランダムに立ち上る。「手前のポーチ兼ヴェランダの手すりにはタオルが二枚と子供達の衣服がかけてある。それがあるかなきかの海洋性の風で微かにはためいている。風は温風というよりは熱風に近かった。」*2と読み上げる。浜辺を見渡せる別荘におとずれ、窓ぎわで肩を並べている気分になる。約15秒のわずかな時間で、バカンスみたいな明るい錯覚。
この密室に潮風を呼んで「フィリピン行ってみたい」とつぶやけば、見たことのないウミドリの鳴き声が天井を突きぬける。
代わりばんこで繰り返し読み聞かせると、塩水を飲んだように喉が枯れてしまった。もうパインアメでも潤せない。
ぼくの存在なくしてもゆらめく世界を、この部屋にしつらえようと思った。水を張って花を飾るのもいいだろう。枯れてしまうことに遥かな象徴がある。
引用
森瑤子『カフェ・オリエンタル』第1刷・講談社文庫・1988年
*1 p.43
*2 p.46