家から見える花火が特別なイベントなことが嫌いだった。今も特別な月から背を向けている。ベランダの格子から身を乗り出して空を眺めることもない。
木の周りにぐるぐると巻きついた電飾も体幹となっているシルエットを隠すように明るい。
ある日 物事を知らないもので例えるのはやめようかと私に提案した。すると花火は色のついた火で、イルミネーションはコードが巻きついた点滅する光になった。
今までの得体の知れない生物に例えて意味をふにゃふにゃにするわけでもなく、私にしか理解できないオリジナル料理の味に例えて、個人とあなたを切り離してみせる。今日は三回に一度は失敗する豆腐を入れたお好み焼きだ。美味しくないんだよね。
家の前の道路を斜めに渡って、違う道路へ行く途中に、赤く錆びて衣が付いた排水管は、前は青く塗装してあったはずだ。
記憶はいつ止まったのか覚えていないが、斜めに渡る時の歩幅は変わらない。
今の生活で家から出るのは、郵便局に行く時くらいで、書留の速達で、それと普通でを何度も繰り返す。未だに速さが先なのか留めが先なのかわからない。なのに毎回しっかり800円程取られて、行きより悲しさで少し肩を落としながら歩く。
足裏全体を地面につけて滑るように遠回りする。いつから閉まっているのかわからない喫茶店は、シャッターの前に沢山のプランターがあって人が住んでいることがわかる。
よく近所を徘徊していた時は草の伸び具合や、水やりの時間もわかったのに、今は徘徊も罪深いような雰囲気が漂っている。
自分を整理する為に与えられた時間は、外について考える時間にした。
外は別にこれといって楽しくなくて、成長もしない。どこにいっても背も伸びないし、目も良くならない。ただあてもなく歩くにはうってつけで、あてがなくても目の前はずっと途切れないことは良いことだなと考えた。