新しい部屋

その日は店番を任されていて、時間まで本をめくることや、うつくしい音楽を部屋に満たすことでほとんどを過ごしていた。降っては上がる陽射しの変化に寄り添って選曲をする。するべきことは何もない、かといって完全な自由でもない制約されたヒマの時間。

人影が近づいてくる。太い黒縁ボストンめがね、赤と黄が交差したチェックシャツの長い背丈で、扉をくぐるように入ってくる。ドリンクの注文をされたので渡すと、四方の壁に並べられた商品を眺めることなくすぐに出ていった。日本語にはまだ慣れていない海外の方らしかった。

しばらくすると彼はもう一度やってきた、同じ日に二度もお店を訪ね注文する人は初めてだった。二度目の来店でスタッフという立場上、一声かけたほうがいいだろうと感情に駆られ、短い時間に再会する気恥ずかしさにも耐えきれなくなっていたぼくは、大したことのない平均的な話題を投げかけた。すると彼はお店を「Cool」の単語で褒めると「オンガクは?ニコ?」と聞いた。好意の釣り合いがとれていない返答にたじろいで彼の顔に視線を向けると、澄んだ青い瞳をしている。

ウォーホルのバナナジャケットで有名なヴェルヴェッツの1stに参加したことで広く知られるニコのソロ、"Frozen Warnings”という曲を流していた。アラン・ドロンとニコの一夜の恋で生まれた息子アルは、麻薬中毒だった彼女から哀切なネグレクトを受けていた。アルは捨てられた後も母親の姓を名乗ることに固執した。その後の会話はお互いに通じているかどうか、やさしい単語を無造作に宙で並べては届いてくれと願うばかりだった。言葉を交わし終えると名前を尋ねられた。

「アナタの、名前は、ナニ?」
「ワタシは、ガブリエル、です」

ぼくは自分の名前に違和感を持っている。名前を言うのが苦手だ。そうした気持ちの揺らぎから咄嗟に苗字だけを答えてしまった。それ以上口を開こうとしないぼくに、彼は不思議そうな顔を向けていた。その表情は名前を言うべき場面で苗字を言ったことが気がかりなのか、母国語を日本語に変換できない憂いなのかは判別できなかった。カタコトでまた会う約束をして見送った。

「えーと、マ タ ネ」

彼が名前を尋ねたこと、ぼくが苗字しか言えなかったこと、そのきっかけがニコだったこと、これらすべてには特別な意味があるような気がした。すると途端に、ガラスに反射する銀色の輝き、透明の向こうでなびく枝葉、空に散らばる白。そういった絵画的な色彩から、夏の目配せを受けたようだった。

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